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元白の“初識”の年代をめぐって ―― 陳才智氏の「元稹白居易〝初識〟之年再辨」に答える

http://www.newdu.com 2018-04-14 中国文学网 金卿東著豊福健二 参加讨论
 
    一
  
    筆者は元稹と白居易の交遊関係を検討する過程で、両人の〝初識〟の年について、既存の説と異なった見解をまとめ、『文学遺産』二〇〇〇年第六期に「元稹白居易〝初識〟之年考辨」(以下、「金文」という)という題目で発表した。それから一年近く経って、『文学遺産』二〇〇一年第五期の中で陳才智氏の「元稹白居易〝初識〟之年再辨」(以下、「陳文」という)という文章に接することになった。筆者の文章に興味を抱き、反論を提起する労苦をいとわなかったことに対して感謝の念を懐きつつ、興味深く読んでみた。彼の労苦に対しては、当然、答礼の文章を早速にでも執筆しなければならなかったのだが、あれやこれやの公務で一日また一日と先送りし、今ようやく『白居易研究年報』の紙面を提供していただくことになった。陳文に対する反論の文章を『白居易研究年報』に発表した理由は、第三国の学術誌が、より公平だと考えたからであり、同時に同誌が世界で唯一の白居易研究の専門学術誌として権威を認められているからでもある。
    陳文は筆者の見解に反論を提起してはいるが、実はそこで主張するところは新たな見解ではなく、元白の〝初識〟の年について金文ですでに紹介した既存のいくつかの見解のうちの一つ、すなわち〝貞元十九年〟説である。〝貞元十九年〟説は金文でもすでに明らかにしたように、宋の陳振孫が『白文公年譜』で提起したのち、長期間にわたって後人たちによって受容されてきた見解であって、その根拠は白居易の「代書詩一百韻寄微之」という詩の中の「貞元中、微之と同に科第に登り、倶に秘書省校書郎を授けられ、始めて相識るなり」という自注である。ところで陳文では、「〝貞元十九年〟説を覆すことは困難である」として陳振孫の旧説を支持する根拠が、やはり同一作品の白居易の自注であって、新たな根拠は全くない。
    もし「代書詩一百韻寄微之」の自注が、元白の〝初識〟の年を明らかにすることにおいて唯一無二の手がかりであり、したがって〝貞元十九年〟説が絶対的に〝疑いをさしはさむ余地がない〟ものだと言うのならば、ここで筆者には一つの疑問が生ずる。すなわち、陳振孫の『白文公年譜』や白居易の「代書詩一百韻寄微之」の自注は、少しでも白居易に関心のある研究者ならだれでもよく知っている資料であるにもかかわらず、その後の多くの研究者たちが〝貞元十八年冬〟説、〝貞元十八年秋〟説、〝貞元十八年以前〟説などの異説をなぜ提起したのかという点である。人文科学の分野においては絶対的な真理というものはなく、ただ、さまざまな可能性の中から、より可能性が高いものを追求することが人文科学研究の役割であると筆者は考える。したがって、妥当な論理と新たな根拠を確保し、より可能性が高いと考えられるとき、研究者たちが既存の説とは異なる見解を披瀝することはあまりにも当然のことである。元白の〝初識〟の年に関しても、陳振孫の〝貞元十九年〟説以後に提起された新たな見解は、それぞれ論理と根拠をもっていたのであり、そのため、それぞれの説に従う研究者たちが少なからず生まれてきたのである。
    このような点を考慮して、筆者が元白の〝初識〟の年について、既存のさまざまな説とは異なる見解をまとめるときに注意を傾けたことは、筆者の論理と根拠のみではなく、既存の諸説についての検討と、その根拠の妥当性の可否についてであった。もっぱら自己の論理と根拠にのみ固執して異説から採択される論理と根拠を無視するならば、説得力の不足と論理的矛盾が発生して、〝それぞれに自己の意見を主張する〟という状態を引きおこしかねないからである。したがって大きく二つの部分から成る金文では、筆者の新たな見解を提示するに先だって、まずさまざまな旧説とその根拠を紹介し、そのあとでその説の妥当性について反論を提起したが、この部分が占める分量はおおよそ三分の二に該当する。しかし、陳文ではこの部分に関しては、わずかひと言の言及すら見えない。「元稹白居易〝初識〟之年再辨」という題目が示すように、陳文の主要な論旨が元白の〝初識〟の年についての〝再辨〟にあるのならば、〝貞元十九年〟説以外のすべての見解の根拠について、その妥当性の可否に論及してこそ当然なのに、金文の〝貞元十六年〟説以外の異説、すなわち〝貞元十八年冬〟説、〝貞元十八年秋〟説、〝貞元十八年以前〟説などについての言及を避けたことは、物足りないと言わざるを得ない。その理由はたぶん次の二つのうちの一つであろうと考えられる。
    その第一は、その他の異説に対する筆者の反論に同意して、それを受け入れた場合である。そうだとすれば、筆者としては少なからず慰められ、支持してくれたことに対して謝意をあらわさなければならないであろう。しかし、ここで筆者が気になることは、陳文で主張されているように〝貞元十九年〟説がそのように〝疑いをさしはさむ余地がない〟ことであるとすれば、陳振孫以後、筆者に至るまでの間、中国においてのみ〝貞元十八年冬〟説、〝貞元十八年以前〟説などが提起され、白居易の伝記に関する数多くの論著に受容されることによって読者たちを混乱させてきたにもかかわらず、陳文のような文章が金文発表以後でなければ登場しえなかった原因が何であるかという点である。
    実は、筆者が〝貞元十六年〟説を提起するときに最も神経を使ったのは、白居易の「酬元九対新栽竹有懐見寄」(1)という詩と元稹の「和楽天秋題曲江」という詩を証拠として確保し分析する作業よりも、既存の諸説の妥当性についての検討であった。特に花房英樹氏の〝貞元十八年秋〟説と朱金城氏が提起した〝貞元十八年以前〟説については、多くの時間と紙面を割いた。白居易研究の方面において、いずれも卓越した業績を残した先輩研究者の主張であるからというのみならず、その根拠として提示された白居易の「秋雨中贈元九」という詩は、すでにかなり以前から貞元十八年(八〇二)の作と推定され、現存する最初の元白唱和詩に属する作品として伝えられているからであった。もしも「秋雨中贈元九」の制作年の推定についての反論を提起することが不可能であったならば、〝貞元十六年〟説を提起した金文は発表されなかったであろう。また、「秋雨中贈元九」が確実に貞元十八年(八〇二)の作品であれば、〝貞元十九年〟説は成立することができなくなるのだが、もしも金文が発表されなかったとすれば、陳文の著者は「秋雨中贈元九」をどのように処理したか、非常に気になってくる。
    その第二。第一の場合でなかったとすれば、故意に、あるいはやむを得ずに避けたと考えられる。金文ですでに、
  
    彼(朱金城氏)は「代書詩一百韻寄微之」の自注に記された時間は精確だとは言えないと考え、「陳振孫の『白文公年譜』がその自注に拠って元白が交際を結んだ年を貞元十九年としたのは誤りである」と断定している。そして最終的には、元白が交わりを結んだのは貞元十八年以前であるとの結論を得ている(2)。
  
    と明らかにしたように、陳振孫の〝貞元十九年〟説を直接的に反駁した人物は朱金城氏であった(3)。また、一九八八年に出版された朱金城氏の『白居易集箋校』(第一冊三四頁)の「酬元九対新栽竹有懐見寄」の箋では、次のように陳振孫の〝貞元十九年〟説に対してさらに強力な反論を提起している。
  
    元和五年(八一〇)、三十九歳のときに作らる。……城按ずるに、此の詩に「昔我十年の前、君と始めて相識る」の句有れば、則ち元・白、貞元十八年の前に相識るを知る。白氏に「秋雨中、元九に贈る」の詩(巻十三)有りて云う、「莫怪独吟秋思苦、比君校近二毛年=怪しむ莫かれ独吟秋思の苦しきを、君に比して校近し二毛の年」と。此の詩は貞元十八年、三十一歳のときに作らる。元・白校書郎を授けられし前に在りて已に相識れるを証す可し。「元九の新たに栽うる竹に対して懐有り寄せらるるに酬ゆ」の詩の記す所の時間と正に合す。陳譜(陳振孫の『白文公年譜』)に、交わりを貞元十九年に訂ぶと云うは、是に非ず。
  
    しかし、陳振孫の〝貞元十九年〟説を支持する陳文では、白詩を引用するごとにその出処として朱金城氏の『白居易集箋校』の冊数・ページ数まで明記する労苦をいとわないのに、朱金城氏が陳振孫の〝貞元十九年〟説を最も強力に批判した事実についてはひと言の言及もなされていない。まったく釈然としないこのような状況が何を意味しているのか、気になるばかりである。
  
    二
  
    〝貞元十六年〟説を提起した金文に対して、陳文は大きく五項目に分けて反論を展開している。しかし、その中には論理的誤謬や自己矛盾・牽強付会の部分が少なくないので、以下、陳文の叙述の順序に従って反論することにする。その前に、まず一つ言及しておかなければならないことがある。陳文はその冒頭で金文の〝貞元十六年〟説を簡単に紹介したのち王汝弼氏の『白居易選集』を取り上げ、「思うに、元白の〝初識〟の年が貞元十六年であることは、一九八〇年十月上海古籍出版社出版の王汝弼氏著『白居易選集』においてすでにそれが述べられている。その証拠は上に述べた第一点の証拠(該書一一一頁「酬元九対新栽竹有懐見寄」の注釈②に見える)である」と言っている。二十余年前にすでに元白の〝初識〟の年について〝貞元十六年〟説が存在したように表現された陳文の叙述によって、筆者はまず訝しさを覚えた。王氏の書について確認してみるに、「酬元九対新栽竹有懐見寄」の注釈②の全文は次のようなものであった。
  
    [昔我二句]『唐登科記』に拠れば、白居易、貞元十六年(八〇〇)二月、高郢主試の下に在りて進士に及第す。元稹と相識を開始せるは、当に此の時に在るべし。下って元稹元和五年に江陵の士曹参軍に貶せられて「竹を種う」の詩を写せしを距たること、已に十年の数に満てり。
  
    〝昔我二句〟というのは、むろん「昔我十年前、与君始相識」の二句をいい、全体的な文脈の上からは、貞元十六年に元白がはじめて相識ったことを意味していると推測することができる。しかし、その根拠が何であるかについては明確な解説がなく、ひいては、あたかも元白の〝初識〟の年が貞元十六年であるとする根拠が、ただちに白居易の進士及第の年が貞元十六年であるからだという誤解をひきおこす。そして、「酬元九対新栽竹有懐見寄」に対する王汝弼氏の注釈の中には、この作品の制作年についての言及がまったくない。王汝弼氏の『白居易選集』は大衆性と商業性のみを追求した見かけ倒しの選注本とは異なり、ある程度学術性を認められた注釈書であることは間違いないが、つまるところ、白居易の伝記に関する論著でもなく、作品繋年を目的に執筆されたものでもないので、上述の問題点について目くじらを立てることはない。しかし、その注釈②を元白の〝初識〟の年に関する既存の諸説の中に包含させることは、少なからぬ問題がある。王氏の注釈②が出てくることになった根拠を推論してみるならば、次の通りである。
    「酬元九対新栽竹有懐見寄」の注釈①で、白居易のこの作品は元稹の「種竹」に対する和詩であると言い、注釈②で、元稹の「種竹」は元和五年の作品であると言っているので、王汝弼氏は汪立名・花房英樹・朱金城ら各氏の説を受け入れ、「酬元九対新栽竹有懐見寄」の制作年を元和五年(八一〇)と見なしたようである。そしてそのあとで「昔我十年前、与君始相識」の二句によって、八一〇年の十年前である八〇〇年(貞元十六年)を元白の〝初識〟の年であると注釈を付したように考えられる。しかし、〝十〟という数字を実数であると断定できるかどうかの可否と、既存の諸説の妥当性についてはいかなる論及もなく、単に八一〇年の十年前であるという単純な計算のみが存在する。八一〇から十を差し引けば八〇〇であるという単純な計算は、幼い子供でもすることのできることである。
    そればかりか、白居易の「酬元九対新栽竹有懐見寄」の「昔我十年前、与君始相識」の二句は、すでに広く知られた資料として、白居易の伝記に関する多くの論著に登場しており、その作品の制作年も、また元和五年ということでよく知られている。そうすると、あれほど多い白居易の研究者たちが、810-10=800という計算をすることができなくて〝貞元十六年〟説を提起することができなかったというのではないだろう。これは、白居易の「酬元九対新栽竹有懐見寄」の「昔我十年前、与君始相識」の二句とそれに従う単純な計算のみでは、説得力と妥当性が不足であるということを示しているのである。したがって、筆者の〝貞元十六年〟説がこの資料にのみ依存しているわけではなかったのは、まさにこのような理由からであり、その間の事実は金文によく現れている。
  
    朱金城氏もこの資料を挙げてはいるが、いまだ元白の相識の年が貞元十六年であると断定するには至らず、ただ〝貞元十八年以前〟であると述べるのみである。その理由を追求してみると、おそらく朱氏は、詩歌に見える数字は必ずしも実数ではないということに考え至ったことにあるであろう。数字は詩歌の中では、時には実数を指し、時には虚数を指し、時には端数のつかない数を挙げ、時には誇張して多く言って大げさな表現になることもある。したがって「昔我十年前」の〝十〟は、もしかしたら概数かも知れないが、しかしまた、絶対に実数ではないと言うこともできない。この問題に関しては、元稹の一首の詩歌の中からさらに信頼すべき根拠を探し出すことができる(4)。 
  
    先の引用でも言及したように、朱金城氏はまた、さまざまなところで「酬元九対新栽竹有懐見寄」の「昔我十年前、与君始相識」の二句を取り上げて論じている(5)。にもかかわらず、朱金城氏が〝貞元十六年〟説ではなく、〝貞元十八年以前〟説を主張したのは、「酬元九対新栽竹有懐見寄」よりは、「秋雨中贈元九」をより価値のある資料と考えたからであった。言い換えれば、そのように卓越した業績のある研究者が、810-10=800という単純な計算ができなかったからというのではないのである。結論的に言って、王汝弼氏の「酬元九対新栽竹有懐見寄」についての注釈②は、学術的な価値を認められるに値する資料ではないと考える。金文では、元白の〝初識〟の年に関する既存の諸説の蒐集範囲を元稹・白居易の伝記に関する論著に限定したためではあるが、かりにこの資料に注意を傾けたにしても、強いて金文に取り上げる必要を感じはしなかったであろう。
  
    三―一
  
    陳文で第一点として提起された反論の主要な内容は、やはり宋の陳振孫以後広く知られるようになった白居易の「代書詩一百韻寄微之」の自注である。陳文は「貞元中、与微之同登科第、倶授秘書省校書郎、始相識也」という白居易の自注を取り上げたのち、元白が「同に科第に登り、倶に秘書省校書郎を授けられ」たのは貞元十九年春のことであるから、「白居易みずから、彼が元稹と〝始めて相識〟ったのは貞元十九年の春であると言っているのは、疑いをさしはさむ余地はないはずのことである」と述べている。ひとたび、白居易自身が言った言葉であるという点に基づいて、これは元白の〝初識〟の年の面で最も有力な根拠であると見なされたのであり、したがって〝貞元十九年〟説が、宋の陳振孫以来、長期間にわたり採択されてきたのである。しかし異なる角度から見れば、この資料がよく知れわたっていたにもかかわらず、多くの研究者たちがなぜ異なる説を提起したのかという点はどうであろう。これは、「代書詩一百韻寄微之」の自注が白居易〝みずから言〟ったことであるということを知らなかったからではなく、それとは別の可能性を発見したからだと考えられる。
    もしも、作者自身による記録であるという理由で、それをすべて真実であると受け取ったならば、学問研究の必要性や価値は色あせる。客観的あるいは主観的なさまざまな原因によって、記録には誤謬が存在するものである。さらには、者の故意による意図的な記録は、事実と食い違う場合もある。したがって、たとえ作者自身の記録だと言っても、学問研究の領域では、その真偽を明らかにし真実を明かすことが研究者の義務である。さまざまな状況を考慮すれば、白居易自身の記録の中にも、版本上の問題あるいは作者自身の思い違いによる誤記などによって、事実とは食いちがう場合がありうるということを看過してはならない。
    版本上の問題である場合としては、「曲江感秋」という詩の制作年に関する朱金城氏の考証を代表的な例として挙げることができる。もともとこの詩の題下には〝五年の作〟という原注があるが、朱金城氏は、白居易の「曲江感秋二首」の序の記述と「曲江感秋」の内容から見ると元和四年の作品であることが明瞭なので、原注の〝五〟は〝四〟の誤記であると言っている(6)。これについて現在、懐疑的な反応もありはするが(7)、白居易の原注の記述のみを盲信せずに、少なくとも、版本上の誤記である可能性が高いということを明らかにしたことは、後学たちが模範としなければならない。
    単純な版本上の問題ではなく、白居易自身の誤記であると考えられる場合もある。例を挙げれば、白居易が宝暦元年(八二五)に蘇州刺史に赴任したのちに書いた「呉郡詩石記」には、次のような記述がある。
  
    貞元の初め、韋応物、蘇州の牧と為り、房孺復、杭州の牧と為る。皆豪人なり。……時に予始めて年十四五にして、二郡に旅し、幼賤を以て遊宴に与るを得ず、尤も其の才調の高くして郡守の尊きを覚る。当時の心を以て言えば、異日、蘇・杭、苟も一郡を獲ば、足れり矣と。今に及び中書舎人より、間いに二州を領す。去年は杭の印を脱し、今年は蘇の印を佩び、既に彼に酔いて、又此に吟ず。……前後相去ること三十七年、江山は是にして歯髪は非なり。又嗟く可し矣。……宝暦元年七月二十日、蘇州刺史白居易題す。(8)
  
    白居易自身の記録ではあるが、この文章の内容によれば、白居易が蘇州・杭州に遊んだ年代に矛盾が発生する。「貞元初、……時予始年十四五」という前の部分の記述を根拠とすれば、白居易が蘇州・杭州に遊んだ時は、十四、五歳の貞元元年(七八五)もしくは貞元二年(七八六)になるが、「宝暦元年」(八二五)という制作年と、「前後相去三十七年」という末尾の部分の記述を根拠とすれば、白居易が蘇州・杭州に遊んだのは、彼が十七、八歳であった貞元四年(七八八)・五年(七八九)のこととなる。二つの年代のうちいずれが正しいかは、ここでは議論の対象外であるが、白居易自身のこれら二つの記録のうち、一つは誤っているとするしかない(9)。
    ところで興味深い事実は、蘇杭二州に遊んだ時期に関しては、白居易自身による、さらに別の記録が残っていることである。長慶二年(八二二)七月に杭州刺史に赴任する途中で作った「長慶二年七月自中書舎人出守杭州路次藍渓作」という詩(以下、「長慶二年七月」と略す)では、「余杭乃名郡、郡郭臨江汜。已想海門山、潮声来入耳。昔予貞元末、羈旅曾遊此=余杭は乃ち名郡にして、郡郭は江汜に臨む。已に想う、海門山、潮声来たりて耳に入るを。昔予貞元の末、羈旅して曾て此に遊べり」と言っている。ところで、「呉郡詩石記」の内容を根拠とすれば、蘇杭二州に遊んだ時期は〝貞元初〟であることが明瞭であるから、「長慶二年七月」で〝貞元末〟と言っているのは誤記であることが確実である。宋の紹興刻本、那波道円本、馬元調本、汪立名本などの諸本は、いずれも〝貞元末〟に作っているし、〝初〟と〝末〟の字は、〝形似〟あるいは〝音似〟というケースに属することもないので、よくある版本上の誤りである可能性は高くないように考えられる。また、「長慶二年七月」が八二二年の作であり、「呉郡詩石記」が八二五年の作であることを考慮するならば、かなり以前のことなので白居易が誤って記憶していたと断定することもできず、詩の形式を調べてみても平仄や押韻の問題によるやむを得ない結果というわけでもない。たとえ、「長慶二年七月」に〝貞元末〟と記録されている原因は版本上の誤りなのか、白居易自身の誤記なのか、現在、断定することはできないとしても、いずれにせよ我々がテキストとする現存の版本の上では、白居易の「長慶二年七月」の記述が事実と異なるという点のみは明瞭である。したがって「長慶二年七月」の「昔予貞元末、羈旅曾遊此」という記述のみを根拠として、作者自身が書いた詩であるから、白居易が蘇州・杭州に遊んだのは〝貞元末〟のことであると主張するような愚を犯してはならないであろう(   10)。
    これと同類の誤記と推定される例を今一つ挙げるならば、次のようなものがある。宝暦元年(八二五)、九歳年上の詩友である元宗簡の文集を編纂したときに書いた「故京兆元少尹文集序」に、「(元宗簡)、長慶三年冬、疾に〔遘いて〕彌留す。将に手足を啓かんとするも、他の語無く、其の子途に語げて云う、……」とある。ここに見える「長慶三年冬」は、宋の紹興刻本、那波道円本、馬元調本などの諸本は言うに及ばず、『文苑英華』『全唐文』も同様に作っている。これを根拠とすれば、元宗簡は長慶三年の冬以後に没したことになる。しかし、長慶二年(八二二)に作った「晩帰有感」という詩(  11)の「劉曾夢中見、元向花前失」という句の自注に、「劉三十二校書の没後、嘗て夢に之を見、元八少尹は、今春桜桃の花時に長逝せり」とあり、同年の作品である「元家花」(  12)で、「今日元家宅、桜桃発幾枝。稀稠与顔色、一似去年時。失却東園主、春風得可得知=今日元家の宅、桜桃幾枝か発ける。稀稠と顔色と、一に去年の時に似たらん。東園の主を失却するは、春風知るを得可けんや」と言っているので、元宗簡が没したのは明らかに長慶二年のことである。これについて顧学頡氏校点の『白居易集』では、「原本は誤りて〝三年〟に作る。白集の『晩帰有感』の詩の注の『元八少尹、今春桜桃花時長逝』に拠れば、此の詩は長慶二年春に作らる。元宗簡は元年冬に疾に寝ね、二年春に逝世するを知る。故に〝三〟の字は誤りなり」(  13)と言っており、多くの研究者たちも共通した見解を示している(  14)。このような状況があるので、白居易の「故京兆元少尹文集序」の「長慶三年冬」という記録のみによって詩友元宗簡の没した時期が長慶三年の冬以後であるとしたり、あるいは長慶二年の作である「晩帰有感」「元家花」の制作年を否定したりしてはならないだろう。
    他の例を挙げよう。白居易の「感旧」という詩の序に、生涯の知己である元稹について、「元相公微之、大和六年秋薨ず」と書かれている。この部分は、宋の紹興刻本、那波道円本、馬元調本、汪立名本などの諸本はいずれも同じである。しかし、白居易自身の他の記録、すなわち「元公墓誌銘」(  15 )と「祭微之文」(  16)などでも確認することができるように、元稹が没したのは大和五年(八三一)七月のことである。「感旧並序」が会昌二年(八四二)に作られたことを考慮すると、白居易自身の一時的な誤記である可能性もあり、また単純な版本上の誤りである可能性もある。
    したがって、現存する記録には、作者自身の誤記あるいは版本上の誤りによって事実とは異なる記録がある可能性を排除してはならないのであり、他の資料についての、より細心な注意を通して、また別の可能性を発掘・提示することが、研究者の適切な態度であると考える。「尽く書を信ずれば則ち書無きに如かず」という孟子の戒めは、常に我々に対して有効である。
  
    三―二
  
    陳文で第二点として提起された反論の内容を要約すれば、次の通りである。
  
    白居易は貞元十六年二月十四日に進士に及第したのち、「すぐに京師を離れ、貞元十八年の晩秋になってやっと長安に帰り、吏部で書判抜萃科に試され」た。元稹は、「貞元十六年三月から四月にかけてのころはじめて長安に行き、秋から冬にかけてのころふたたび長安に行って試に応じ」たので、「貞元十六年、元白は長安で知り合う機会はなかった。」これは『鶯鶯伝』についての〝張生即ち元稹自ら寓す〟という説を根拠とした推論であり、もしも、呉偉斌氏の「『鶯鶯伝』写作時間浅探」「『張生即元稹自寓』説質疑」「再論張生非元稹自寓」「論『鶯鶯伝』」「関于元稹婚外的恋愛生涯:『元稹年譜』疏誤辯証」、および黄忠晶氏の「対陳寅恪先生『読鶯鶯伝』的質疑」などの論文において提起された〝張生は元稹自ら寓するに非ず〟という説に従うとするならば、「現在のところ、まだ元稹が貞元十六年に京師に赴いて試に応じたことを証明する資料はない」ので、「元白がこの年に長安で知り合う機会はさらになかった。」
  
    この部分に関して、まず疑問が生ずるのは、陳文の著者が金文を十分に読んだのかという点である。なんとなれば、金文の結論は、
  
    元稹と白居易が書判抜萃科の〝同年〟および秘書省の〝同事〟の関係だったことから〝同心の友〟となって金石の交わりを結んだのは、貞元十九年(八〇三)春に始まる。しかし、元白両人が面識を得た年、すなわち〝初識〟の年は、それよりも三年遡って貞元十六年(八〇〇)のこととしなければならない。
  
    ということであって、文章のどの部分においても、元白両人の〝初識〟の地点が長安であると言ってはいないからである。筆者も元白の〝初識〟の地点について考えてみなかったわけではないが、現存する資料と、元白の伝記に関する先行研究の成果のみでは、それが具体的にどの地点であると断定することはできない状況だったので、言及を保留していたのである。現在のところ、長安あるいはそれ以外の場所について、いずれもその可能性を開いておかなければならない。
    したがって陳文の第二点の反論については、事実上それに答える価値も必要性もまったく感じえない。しかし、論理的な面で陳文に大きな問題があるので、簡単に言及しておこう。陳文では〝張生即元稹自寓〟説を根拠に、「貞元十六年、元白は長安で知り合う機会はなかった」と言っているが、たとえ『鶯鶯伝』の〝張生〟が元稹自身をモデルにしているとしても、『鶯鶯伝』に虚構的な成分がまったくないと断定することはできず、したがって作品中の〝張生〟の行跡年代が元稹の実際の行跡年代と必ずしも一致すると言うことはできない。おそらくこのような理由から、陳文でも、「これは、『鶯鶯伝』の〝張生〟は〝元稹自ら寓し〟たものであるとする説に基づく推断である」と言っているようである。ところで、さらに大きな論理的矛盾は、〝張生非元稹自寓〟説に従うならば、「現在のところ、まだ元稹が貞元十六年に京師に赴いて試に応じたことを証明する資料はない」ので、「元白がこの年に長安で知り合う機会はさらになかった」と言っているところである。元稹と白居易が必ず長安で会ったようだという前提のもとに叙述されているというのも、論理的に問題であるが、〝あるAという事実を証明する根拠がなければ、Aという事実は存在しない〟というのは、明白な論理的誤謬である。このような論理は、まさに「神が存在しないという証拠は一つもない。したがって神は存在する」というような〝無知に訴える論証の誤謬(fallacy of argument from ignorance)〟と呼ばれる論理的誤謬の一種である。陳文の著者は論理的妥当性の可否について、さらに深い思考をしなければならないようだ。
  
    三―三
  
    陳文の第三点の反論の主要な内容は、白居易の元和元年(八〇六)の作品である「贈元稹」に関するものである。全二十四から成る詩の中から、「自我従宦遊、七年在長安。所得惟元君、乃知定交難。……一為同心友、三及芳歳闌=我宦遊に従いてより、七年、長安に在り。得る所は惟だ元君のみ、乃ち知る交を定むるの難きを。……一たび同心の友と為り、三たび芳歳の闌うるに及ぶ」という六句のみを引用したあと、
  
    貞元十六年に〝居易、進士の挙を以て一たび上りて登第〟してから元和元年に至るまで、七年を数える。これはちょうど「自我従宦遊、七年在長安」の句と符合する。貞元十九年に元白が〝始めて相識〟ってから元和元年に至るまで、三年を数える。これはちょうど「一為同心友、三及芳歳闌」の句と符合する。
  
    と言っている。このような叙述は一見すると何の欠点もないようであるが、詳細に調べてみると論理上いくつかの問題点を含んでいることがわかる。
    その第一は、貞元十六年(八〇〇)から元和元年(八〇六)までを七年と計算したのに対し、貞元十九年(八〇三)から元和元年(八〇六)までは三年と計算している点である。前者のように足かけ年数で計算すると、後者の場合は四年になり、後者のように満年数で計算すると、前者の場合は六年になるので、白詩の内容と一致しない。このように、都合のよいように双方で別の計算方法を適用しているという点から、陳文の叙述がいかに恣意的であるかわかる。 
    その第二は、「贈元稹」の制作年とその根拠に関するものである。陳文では、この詩を「朱金城氏の『白居易年譜』(三六頁)と『白居易集箋校』(第一冊二一頁)が元和元年(八〇六)に繋けているのは、まことに正しい」と言っている。ところで、その根拠について『白居易年譜』では特に注目すべき言及がないが、『白居易集箋校』(第一冊二一頁)では、
  
    元和元年(八〇六)に作らる。……城按ずるに、白居易は貞元十九年、元稹と同に登第し、同に校書郎を授けらる。而るに交わりを訂むるは是の年の前に始まる。詩に云う、「我宦遊に従いてより、七年、長安に在り」と。白氏は貞元十五年冬に長安に至りて進士の試に応ず。元和元年に至れば適ま七年と為る。此に拠れば、此の詩は是の年の作為るを知る可し。
  
    と言っている。これによれば朱金城氏が「贈元稹」の制作年を元和元年と断定したのは、長安で進士の試に応じた貞元十五年(七九九)から元和元年(八〇六)までを七年と計算したためである。陳文の著者はこれについて「まことに正しい」と言っているようなのだが、朱金城氏のように満年数で計算したなら、陳文で述べられている貞元十六年(八〇〇)から元和元年(八〇六)までは六年と計算しなければならない。逆に、陳文におけるように足かけ年数で計算したなら、朱金城氏が言った貞元十五年(七九九)から元和元年(八〇六)までは八年となり、七年になる年である永貞元年(貞元二十一年、八〇五) が「贈元稹」の制作年となるのである(  17)。以上のように陳文の論理は自己が根拠としたものと互いに矛盾が生じ、説得力を失っている。
    その第三。上の二点よりもさらに大きな問題は、故意に断章取義の過ちを犯していることである。陳文では、「所得惟元君、乃知定交難」という句のあと、ただちに「一為同心友、三及芳歳闌」のみを引用することで、あたかも元白の〝定交〟と「三及芳歳闌」とが直接的な関係があるかのような錯覚を読者に起こさせている。言い換えれば、〝定交〟ののち「三たび芳歳の闌うるに及」んだ年が元和元年(八〇六)なので、元白の〝定交〟は貞元十九年(八〇三)のことであることが確実であるという誤解をするようにしている。しかし、「贈元稹」において省略された内容を仔細に検討してみると、別の解釈が可能である。「所得惟元君、乃知定交難」の次には、もともと「豈無山上苗、径寸無歳寒。豈無要津水、咫尺有波瀾。之子異於是、久処誓不諼。無波古井水、有節秋竹竿=豈に山上の苗無からんや、径寸、歳寒無し。豈に要津の水無からんや、咫尺、波瀾有り。之の子、是に異なり、久しく処るも誓って諼れず。波無し、古井の水、節有り、秋竹の竿」という句があるのだが、これはまことの友と交わることが困難な世相と、それとは異なる人となりをそなえていた元稹に対する高い評価を内容とする。したがって、「乃知定交難」の〝定交〟は元白両人の〝定交〟を言っているのではなく、単に〝交わり結ぶ〟という一般的な意味で使われているのである。また「一為同心友、三及芳歳闌」は、その次に省略された「花下鞍馬遊、雪中盃酒歓。衡門相逢迎、不具帯与冠。春風日高睡、秋月夜深看。不為同登科、不為同署官。所合在方寸、心源無異端=花下、鞍馬の遊、雪中、盃酒の歓び。衡門に相逢迎し、帯と冠とを具せず。春風に日高けて睡り、秋月は夜深くして看る。登科を同じくするを為さず、署官を同じくするを為さず。合う所は方寸に在り、心源、異端無し」と連結させ、元稹と〝同心の友〟となることができた原因および三年間の交遊生活を表現したものと理解しなければならない。金文の結論でもすでに明らかにした通り、「同登科後心相合=同に登科して後、心相合う」(「寄楽天」)と元稹が表現しているように、元稹と白居易が〝同心の友〟となり、〝金石の交わり〟の深い友情を結んだのは、書判抜萃科の「同年」と秘書省の同僚の関係が始まった貞元十九年(八〇三)春からであった。したがって、「贈元稹」は単に、貞元十九年にともに秘書省校書郎に除せられてのちの三年間の〝同心の友〟としての生活と、彼らの友情がどのようであったかを知ることができる資料にすぎず、元白が貞元十九年に〝初めて識〟ったということに関する証拠資料とすることはできない。
  
    三―四
  
    陳文の第四点の反論の部分も、論理的には大きな問題を含んでいる。陳文はまず、「白居易の『酬元九対新栽竹有懐見寄』において、もしも『昔我十年前、与君始相識』の〝十年〟が概数でなく実数であるとすれば、この詩は元和八年(八一三)に繋けなければならない。元和八年から十年を逆算すると、貞元十九年になり、ちょうど白居易が言うところの『貞元十九年に〝始めて相識る〟』と符合する」と言っている。すなわち、『酬元九対新栽竹有懐見寄』は元和八年(八一三)の作品なので、八一三年から十年を遡った貞元十九年(八〇三)に〝始めて相識〟ったというのがその要点である。ところで、こうした結論の前提は、「もしも『昔我十年前、与君始相識』の〝十〟が実数であるとすれば」という仮定である。このような仮定が真でなかったときは、その仮定を前提として述べた結論は、やはり真ではないので、陳文はいわゆる〝仮定忘却の誤謬(fallacy of ignoring the assumption)〟を犯しているのである。
    しかし、陳文にはこれよりもさらに深刻な誤謬が存在する。すなわち、白居易の「酬元九対新栽竹有懐見寄」の制作年を元和八年(八一三)と断定し、八一三年から十年を遡った貞元十九年(八〇三)が元白の〝初識〟の年であることを証明している点である。周知のごとく、現在この作品の制作年は汪立名・花房英樹・朱金城らの各氏によって元和五年(八一〇)であることが明らかにされている。にもかかわらず陳文では、「この詩は元和八年(八一三)に繋けるべきである」と断定している。いったい何を根拠に言ったのか、陳文には何の言及もないが、これは、元白の〝初識〟の年が貞元十九年(八〇三)であるという、自己の結論を根拠としていることが明確である。そして、詩で〝昔我十年前、与君始相識〟と言っているので,八〇三年に十年を加えて八一三年すなわち元和八年とし、それを「酬元九対新栽竹有懐見寄」の制作年と断定したのだと考えられる。そうすると陳文の論理は次のようになる。
  
    ① 元白が〝初めて識〟った年は貞元十九年(八〇三)である。
    ② したがって「酬元九対新栽竹有懐見寄」の制作年は元和八年(八一三)である。
    ③ 詩に「昔我十年前、与君始相識」と書かれているので、八一三年から十年遡った八〇三年すなわち貞元十九年(八〇三)が元白の〝初識〟の年である。
  
    陳文は元白両人の〝初識〟の年についての〝再辨〟が目的である。そしてその結論は、旧説ではあるが貞元十九年(八〇三)である。ところで陳文では、導き出そうとする結論を前提として、現在、元和五年(八一〇)ということが明らかにされている「酬元九対新栽竹有懐見寄」の制作年を元和八年(八一三)と断定した後、ふたたびこれを根拠として結論を導き出しているので、これは〝循環論証の誤謬(fallacy of circular argument)〟を犯している。このような論理的誤謬は、結論で主張しようとすることを前提として提示する、言い換えれば、ある論証が証明しようとすることをすでに受け入れていることで発生する誤謬であって、一名〝先決問題要求の誤謬(fallacy of begging the question)〟ともいう代表的な〝形式的誤謬〟の一種である。論理を生命とする論文において、絶対にあってはならない誤謬とされるものである。
    また、陳文では、汪立名の『白香山年譜』は「酬元九対新栽竹有懐見寄」を元和五年(八一〇)の作品として繋年しているが「その根拠を示していない」と言い、さらにそれが元和八年(八一三)の作品であることを特に強調している。しかし、〝根拠を示さないこと〟と〝根拠がないこと〟は別個の問題である。たとえ根拠がなかったとしても〝根拠がない〟ことのみで否定してはならないが、「その根拠を示していない」という理由のみで否定することは、さらによくないことである。なんとなれば、白居易の詩文についての先人の繋年には、一つ一つ根拠を明らかにしていないだけであって、それなりに根拠がある場合が少なくないからである。例を挙げれば、白居易の「秋雨中贈元九」の制作年を花房英樹氏と朱金城氏は貞元十八年(八〇二)(  18)と断定しているが、これについても両氏は「その根拠を示していない」。にもかかわらず、この両氏は「秋雨中贈元九」の制作年を前提として、それぞれ〝貞元十八年秋〟説と〝貞元十八年以前〟説を主張している。しかし、金文で〝貞元十六年〟説を提起し、この二つの既存の説を反駁するとき、「花房英樹氏と朱金城氏は『その根拠を示していない』」という理由のみで否定しなかったのは、〝無知に訴える論証の誤謬〟という論理的誤謬を犯してはならないからであった。したがって金文では、まず「秋雨中贈元九」についての花房英樹氏と朱金城氏の繋年にはそれなりに根拠があり、その根拠はまさに末句の「比君校近二毛年」という事実であることを明らかにした。そして、その根拠に妥当性がないことを論証したのち、はじめて先人の主張に反論を提起したのである(  19) 。「その根拠を示していない」という理由のみで先人の繋年を無視し、さらに結論を前提として結論を導き出す陳文とは根本的な差異がある。制作年に関する先人の研究成果は、その根拠に妥当性が欠如していることを立証するか、あるいは他の確実な根拠を発見した場合でなければ、先輩研究者たちの労苦を尊重する意味においても、論理的誤謬を犯し通して、むやみに否定してはならないと考える。
  
    三―五
  
    陳文の第五点の反論で最初に主張されていることは、元稹の「和楽天秋題曲江」という詩がまた元和八年(八一三)の作品であるという点である。しかし、これもやはり上述の場合と同じく、〝循環論証の誤謬〟に属する。元稹の「和楽天秋題曲江」は、金文で「この問題に関しては、元稹の一首の詩歌の中からさらに信頼すべき根拠を探し出すことができる」と述べたように、〝貞元十六年〟説の核心的な根拠であった。金文ではまず元白の交遊史についての検討を通して、「七年鎮相随=七年、鎮に相随う」の句は元稹と白居易が秘書省校書郎にともに除せられた貞元十九年(八〇三)春から、元稹が江陵に左遷されることになって長安を発った元和五年(八一〇)四月までの第一次長安時代を指しており、したがって「七」は実数であるということを明らかにした。そしてこれを根拠に、「十載定交契」の〝十〟も実数であって、元白の〝初識〟の時期から元稹が江陵に左遷された元和五年(八一〇)までの期間を指しており、したがって八一〇年から十年を遡ったならば貞元十六年(八〇〇)となり,それがまさしく元白の〝初識〟の年であるという見解を提起したのである。むろん、このような結論は元稹の「和楽天秋題曲江」の制作年が元和五年(八一〇)であるということを前提としたものである。これはすでに花房英樹氏・前川幸雄氏および卞孝萱氏らの先輩研究者(  20)から最近の楊軍氏(  21)に至るまで共通した見解であり、その根拠はいずれも「和楽天秋題曲江」の原唱詩である白居易の「曲江感秋」の「(元和)五年作」という題下の自注である。にもかかわらず、陳文では元和八年(八一三)の作であると断定し、しかもその根拠を提示していない。しかし、これもやはり「酬元九対新栽竹有懐見寄」の場合のように、元白両人が貞元十九年(八〇三)に〝初めて識〟ったという自己の結論を前提としたものである。つまり、「十載定交契」とあるので、八〇三年に十年を加えて八一三年の作品と断定し、ふたたびこれを根拠として「〝十載〟とは、貞元十九年に元白が〝始めて相識〟ってから元和八年に至るまでの十年を指していなければならない」と言い、〝循環論証の誤謬〟を犯しているのである。「和楽天秋題曲江」は金文において提起した〝貞元十六年〟説の主要な根拠であり、その前提は、この作品の制作年が、現在に至るまで定説として認められている元和五年(八一〇)だという点である。したがって金文の〝貞元十六年〟説に異を唱えて〝貞元十九年〟説を主張しようとするならば、少なくとも「和楽天秋題曲江」が元和五年(八一〇)の作でなく元和八年(八一三)の作であることを証明する新たな確証がなければならず、〝貞元十九年〟という結論を前提にしてはならないのである。
    あわせて、陳文では、花房英樹氏と卞孝萱氏が白居易の「曲江感秋」の題下注「五年作」を根拠として元稹の「和楽天秋題曲江」を元和五年に繋年したことは議論の余地があるとし、その理由を「『和楽天秋題曲江』は必ずしも『曲江感秋』と同じ年に作られたのではない」としている。ある面から見れば一理ある理由である。しかし、当時の文人の交遊の一つの手段として盛行していた唱和という行為、そして特に元白の交遊と唱和詩を検討してみるとき、彼らの唱和詩が書簡の機能も果たしていたという事実を考慮すれば、和詩の制作年を原唱詩の三年後と推定したことは、むしろ意地を張っているように感じられる。しかし、これよりもさらに大きな問題は別のところにある。
    陳文の第四点の反論の最後の部分で、元稹の「種竹」の詩とそれに対する白居易の和詩である「酬元九対新栽竹有懐見寄」の制作年について、「ここに二つの可能性がある。その第一は、『種竹』と『酬元九対新栽竹有懐見寄』はともに元和八年に作られたということ、その第二は、『種竹』は元和五年に作られ、『酬元九対新栽竹有懐見寄』は元和八年に作られたということである」と言っている。ところで、そのすぐ上文で、汪立名が「酬元九対新栽竹有懐見寄」を元和五年(八一〇)の作として繋年しているけれども「その根拠を示していない」と言い、卞孝萱氏が「種竹」を元和五年に繋年しているけれども、やはり「その根拠を示していない」という点を理由として否定しているので、第二の可能性は説得力をすでに喪失しているわけである。しかも、第五点の反論の部分で、「『和楽天秋題曲江』は必ずしも『曲江感秋』と同じ年に作られたのではない」と言い、「和楽天秋題曲江」が元和五年(八一〇)の作であるという既存の定説を認めていないので、陳文の著者が言った第一の可能性をみずから全面否定したことになる。陳文にはこうした〝非整合性の誤謬(fallacy of incoherence)〟が少なからず存在する。
  
    四
  
    大和五年(八三一)に元稹が没したのち白居易が作った「祭微之文」には、「嗚呼微之よ、貞元季年、始めて交分を定む」と回想した部分がある。陳文でも第五点の反論のあとで、この部分を引用しているが、その引用の意図が何であるか明確に示されていない。もしも陳文の著者が、「貞元季年」は貞元十九年(八〇三)を指しているのだと理解しているか、あるいは読者にそのような錯覚を与えるための意図で引用したとするならば、ここで一つ補充説明をしなければならない。ここで使われている〝季年〟の辞書的な意味は〝末年〟、すなわち「一人の君主の在位、あるいは一つの年号の最後の時期」(  22) である。「貞元」は徳宗の年号として、貞元元年(七八五)~貞元二十一年(八〇五)の期間であるが、一般的な用例として見ても、貞元十六年(八〇〇)もやはり「貞元季年」と表現することのできる時期である。しかも、白居易の作品の中に、これよりもさらに明確な証拠がある。「新楽府」五十首の中の「馴犀」の題下注で、「(貞元)十三年冬に至り、大いに寒く、馴犀死せり矣」と言っているが、作品の本文ではこの史実について、「君不見、貞元末、馴犀凍死蛮児泣=君見ずや、貞元の末、馴犀凍死して蛮児泣くを」と言っているので、白居易の言語習慣では貞元十三年(七九七)も〝貞元末〟と表現されているのである(  23)。したがって白居易の「祭微之文」の「貞元季年、始定交文」という記述は、元白の〝初識〟の年を考証するのに有効な資料となりえない。
    金文の結論では、元白両人が「一面之交」を結んだ〝初識〟の年は貞元十六年(八〇〇)であることを明らかにし、同時に、元白交遊史における貞元十九年(八〇三)の意味についても、「まさに元稹が『同登科後心相合』(「寄楽天」)と言ったように、元稹と白居易が書判抜萃科の〝同年〟および秘書省での〝同事〟の関係だったことから〝同心の友〟となって金石の交わりを結んだ」ということを明らかにしたのだった。また、元稹が「白氏長慶集序」で、「予始めて楽天と校秘書の名を同じくし、多く詩章を以て相贈答す」(  24)と言っているように、〝元白の交遊および元白詩派の形成についての研究〟とさらに重要な関係がある年は、元白両人が〝初めて識〟った貞元十六年(八〇三)であるよりは、書判抜萃科の同年と秘書省の同僚の関係が始まり、「死生の契り」(元稹「祭翰林白学士太夫人文」の語)(  25) を結んだ貞元十九年(八〇三)であると考える。
    年代考証というのは実に至難な作業である。特に限定された資料の範囲内でなし遂げられる考証作業は、さらにそうである。したがって、元白の〝初識〟の年のように、資料が限定されているのみならず、先輩研究者の成果をある程度前提として受け入れなければならない状況において、何よりも重要なことは〝論理〟である。論理的に欠点が多い文章は、もうこれ以上〝論文〟と言うことができない。このような点から論文というのはきわめて慎重に書かなければならないのだが、他人の論文に対する反論は、それよりもはるかに慎重にしなければならない。
  
    注
    1『文学遺産』所載の金文では「対」が「封」となっており、「見」が脱落していたが、筆者の原稿を確認してみたら、出版社の入力過程で発生した脱誤であることが明らかになった。
    2 金卿東「元稹白居易〝初識〟之年考辨」(『文学遺産』二〇〇〇年第六期)一一〇~一一一頁。
    3 朱金城氏『白居易年譜』(上海古籍出版社、一九八二年)「貞元十八年」の条の二五頁、朱金城氏『白居易研究』(陝西人民出版社、一九八七年)六頁。
    4  金卿東「元稹白居易〝初識〟之年考辨」一一一頁。
    5 朱金城氏『白居易集箋校』(上海古籍出版社、一九八八年)第一冊三四頁・第二冊七二七頁、朱金城氏『白居易研究』六頁。
    6 朱金城氏『白居易集箋校』第一冊四八五頁に、「此の詩の題下の原注の『五年の作』は、当に『四年』の訛文に係るべし。白氏の『曲江感秋二首の序』に、『元和二年・三年・四年、予、毎歳「曲江にて秋に感ず」の詩有り。凡そ三篇、編して第七集の巻に在り。是の時、予、左拾遺・翰林学士為り』と。この詩に云う、『前秋去秋の思い、一一此の時に生ず』と。則ち当に元和四年に作らるべし」とある。
    7 西村富美子氏「関于白居易詩歌創作年代的幾個問題―談『写真図』和『曲江的秋』」(『唐代文学研究』第六輯、広西師範大学出版社、一九九六年)参照。
    8  朱金城氏『白居易集箋校』第六冊三六六三頁。
    9 この点に関して羅聯添氏は、「『前後相去ること三十七年』の語は、較べて信ず可きに似たり。『年十四、五』云云は、或いは一時の誤記ならん」(羅聯添氏『白楽天年譜』、台北、国立編訳館、一九八九年、二二頁)と言い、朱金城氏氏も「……而して居易は是の年十六歳為り、『十四、五』に非ず。疑うらくは白氏の此の文に記する所に誤り有らん」(朱金城氏『白居易集箋校』第六冊三六六五頁、朱金城氏『白居易年譜』一二頁)と言い、同じ見解を示している。
    10 この問題について、顧学頡氏校点『白居易集』(北京中華書局、一九七九年、第一冊一四八頁)では、作品の原文を最初から〝貞元初〟に変え、「原本は誤りて『貞元末』に作る。按ずるに、本集の『呉郡詩石記』に拠れば、白居易、蘇・杭に旅居せしは、貞元初年に在り。故に『末』は応に『初』に作るべし」と言っている。
    11 花房英樹氏『白居易研究』(京都、世界思想社、一九七一年)「白居易年譜」一二一頁、朱金城氏『白居易集箋校』第二冊六二一頁。
    12 花房英樹氏『白居易研究』「白居易年譜」一二一頁、朱金城氏『白居易集箋校』第三冊一二八三頁。
    13  顧学頡氏校点『白居易集』第四冊一四二六頁。
    14 代表的なものとして朱金城氏『白居易集箋校』(第六冊三六五五頁)、羅聯添氏『白楽天年譜』(二三七頁)および日本の研究者丸山茂氏の「白氏交遊録―元宗簡」(『研究紀要』〈日本大学人文科学研究所〉第五六号、一九九八年十月)などがある。
    15 白居易の「元公墓誌銘」に、「太和五年七月二十二日、暴疾に遇い、一日、位に薨ず。春秋五十三」とある。
    16 白居易の「祭微之文」に、「惟れ太和五年、歳、己亥に次れる十月乙丑朔十七日辛巳、中大夫守河南尹上柱国晋陵県開国男食邑三百戸賜紫金魚袋白居易、清酌庶羞の奠を以て、敬んで故相国鄂岳節度使贈尚書右僕射元相微之に祭る」とある。
    17 このような趣旨から王汝弼氏の『白居易選集』(上海古籍出版社、一九八〇年、一三~一四頁)では、「贈元稹」を「永貞元年冬」の作品であると言っている。
    18 花房英樹氏『白氏文集の批判的研究』(京都、彙文堂書店、一九六〇年)五二二頁、朱金城氏『白居易研究』第二冊七二七頁。
    19  金卿東「元稹白居易〝初識〟之年考辨」一一一頁、左段一一行~右段二二行参照。
    20 花房英樹氏「元稹年譜考」〈上〉(『京都府立大学学術報告』〈人文〉第二二号、一九七〇年十一月)六四頁、卞孝萱氏『元稹年譜』(山東、斉魯書社、一九八〇年)一七九頁、花房英樹氏・前川幸雄氏『元稹研究』(京都、彙文堂書店、一九七七年)二四頁。
    21 楊軍氏箋注『元稹集編年箋注』(西安、三秦出版社、二〇〇二年、三〇六頁)では、「白居易の原唱『曲江にて秋に感ず』は『白居易集』巻九に見ゆ。題下注に『(元和)五年の作』と。元稹の和作は当に同年に在るべし」と言っている。
    22 『漢語大詞典』第四冊六九五頁(上海、漢語大詞典出版社、一九八九年)。
    23 「馴犀凍死」の史実について『旧唐書』徳宗紀には、環王国から献上された犀牛が、貞元十二年十二月、大雪が降ったため凍死したと記録されている。陳寅恪氏の『元白詩箋証稿』(一九九頁、台北、里仁書局、一九八二年)でも、「貞元十三年」は「貞元十二年」に改めなければならないと言っているように、もし版本上の誤記だとすれば、貞元十二年(七九六)も「貞元末」、すなわち「貞元季年」に含まれると理解することができる。
    24  冀勤氏校点『元稹集』(北京、中華書局、一九八一年)五五四頁。
    25  冀勤氏校点『元稹集』六二六頁。
  
    金 卿 東  :  [韓國] 成均館大學校 中文學科 敎授
    豊福健二 :  [日本] 武庫川女子大學 敎授
    原载:[日本]白居易硏究會『白居易研究年報』第四號2003.9 (责任编辑:admin)
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